2/4公開講座のお知らせ


きたる2024年2月4日、立春の日に第2回の講座を開催することになりました。

今回も伴市プロジェクト様のお世話になり、カンデオホテルズ京都烏丸六角様のレセプション棟である京都市登録有形文化財旧伴家住宅」が会場です。

五條天神宮の宝船図から個人発行のものまで、最新の研究成果をご披露したいと考えています。

よろしければ、ご参加ください!


『百年前の宝探しII』

■日時:2024年2月4日(日) 19時~21時

■定員:15名(要予約)

■参加費:一般1,500円 学生・カンデオホテル宿泊者1,000円

■会場:カンデオホテルズ京都烏丸六角 レセプション棟
京都市登録有形文化財旧伴家住宅)二階ライブラリー

■予約:専用フォームよりお申込ください。

関東大震災からの復興を願った橋本関雪と片山尚武の宝船図

図1 き祢や尚武の宝船図

先日の公開講座で披露した橋本関雪日本画家)が手掛けた「き祢や尚武」の宝船図[図1]。

縦67.5cm、横39cmのちょっとしたのぼりのようなサイズです。朝日を背にこちらへ向かってくる宝船を描き、その上に鶴が舞い、波間には亀が泳いでいます。

帆の左右を飾る小松、船に積まれた隠れ笠・隠れ蓑・宝珠・鍵・長柄杓・珊瑚などは定番のアイテムながら、米俵でなく千両箱(?)が積まれているのは珍しい。

添えられた和歌は、

「天は(わ)破れ地は裂くとも やすみしし 我が(か)大君の 御代はかわらじ」

「大正甲子 帝国復興 第一寿関雪」

とあり、大正時代の甲子(きのえね)の年=大正13年(1924)、おそらく節分に発行されたと考えられます。*1

この大正13年という年、私は気が付かなかったのですが、参加者のヲガクズさん(@wogakuzu)からご指摘をいただいたことにより、

関東大震災大正12年(1923)の翌年であること

・「天は破れ地は裂く」=大震災

・「やすみしし 我が大君」=天皇

・「御代はかわらじ」=天皇の治世は変わらない

であり、文字通り震災からの日本の復興と平和を願ったものだと分かったのです。

各部を読み解いてみる

となると、その他の箇所にも何か意味が込められているのではないか?と調べてみました。

宝船図の上部に掲げられた「十得」[図2]は、国が滅ぶような災厄や自然災害を鎮めるとされる『毘沙門天王経』から引用されたもの。*2

図2 き祢や尚武の宝船図[上部]

・一得 無尽福
・二得 衆人愛敬福
・三得 智慧
・四得 長命福
・五得 眷属衆多福
・六得 勝運自在福 
・七得 田畠能成福
・八得 養蠺如意福 
・九得 値善知識福  
・十得 佛果大菩提福

宝珠と百足があしらわれており、百足は毘沙門天の使いといわれています。

井上和雄編『宝船集 第二』には、真言宗の某寺院が発行していたとされる「得十種福護符」が掲載されており、宝珠と百足の位置を含め、ほぼ同じ構成です[図3]。

図3 「得十種福護符」 出典:井上和雄編(1922)『宝船集 第二』伊勢辰商店

ただ、原文では「六得 勝軍自在福」となっているところ、関雪は「勝"運"自在福」としているのが興味深いですね。

図4 き祢や尚武の宝船図[中央部]

帆には宝の旧字「寶」を中心として「招」「財」「進」といった文字を組み合わせたものが描かれています。[図4]

これは中華圏における春節の風習である、家の門口に縁起のよい文句を書いて赤紙を貼る「春聯(しゅんれん)」に用いられる図案の一つでした。財を招き、寶を集める...として人気があるとか。*3

生涯に60回以上中国へと渡ったとされる関雪ですから、こうした異国の文化にも詳しかったのでしょう。*4

図5 き祢や尚武の宝船図[落款印の拡大]

「招財進寶」の上には落款印[図5]があり、「寶祚之降 當與天 壤無窮」と書かれていることが分かりました。*5

天照大御神が皇孫・瓊瓊杵尊に対して下された「天壌無窮の神勅」の一節「寶祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」を引用したものと考えられます。寶祚(皇位)と宝船を「寳」で掛け合わせているのは、何とも上手いですね。

施主「き祢や尚武」について

図6 き祢や尚武の宝船図[右下部]

残る謎は施主[図6]についてです。国会図書館デジタルコレクションで検索を駆使した結果、大正時代に祇園石段下で「きねや美術店」を営んでいた「片山正」という人物が浮かび上がり、その雅号が「尚武」であることが判明しました。

片山 正

京都名物祇園だんご 京都名物阿は餅製造販売元 商号祇園だんご 京都市祇園街石段下北側 電話祇園二三八、四六七二番

新書画美術品商 商号きねや美術店 京都市下河原通下河原町 電話祇園六六五番

君は本県士族にして明治二十八年十一月三日を以て八幡濱町に生る後、原籍を京都市東山区祇園町北側二八五に移す。夙に県立宇和島中島学校に学び後、上京。実業に従事す。現に前記の実業に従事し、尚武と号し、新書画美術の蘊奥を極め、書画骨董界に於ける重鎮たり。宗教代々浄土宗なりしも現在は日蓮宗なり。趣味、旅行、写真。【家庭】妻安子は京都市京都第一高女卒、長男眞太郎あり。

愛媛通信社編(1934)『伊予の事業と人物』愛媛通信社

祇園だんご」経営との兼ね合いは詳らかではないですが、愛媛からの移住後に美術商として成功し、昭和初期には故郷に錦を飾った人物として知られていたようです。*6

七月二十一日 晴

天気もどうやらなほつたらしい。蓁は用事にて上京。ひる前仕事にでもかゝらうかと思つてゐたら、京都の内藤琪土君の紹介で片山尚武といふ新書画屋さん来訪、内藤君が志那の篆刻家にたのんでくれた印が出来たのと、木村に贈る唐画(明初?)花に蟲類の図とを託されて来たのだ。志那へ行つていろいろ画材になる風景を写真にうつして来たのを七百枚とか持つてゐたり、大津画の刊行をするとか云つてゐたが、少しがさつな吹き屋らしくあまり好意は持てなかつた。

岸田劉生(1952)『劉生絵日記』第2巻 大正12年(1923)度 龍星閣

祇園石段下きね屋美術店へは時々生白い自称美術家連や絵専生などがやって来ては店頭に陳列された売品画に対して得手勝手な出鱈目の罵評を加へたりするので柔道二段のムカツキ屋の主人片山尚武君はいつかもこんな連中を見掛けて「貴様達に画がわかるか」と生白い連中を電車道の真中まで投げ飛ばしたことがあった。此頃同店先へ『絵専生徒入るべからず』と貼り出そうかと笑っていた。

『芸天』第30号 芸天社 大正15年(1926)

▲片山尚武氏 自分の趣味とする木版画普及の目的をもって自己経営のきねや美術店より京都趣味の書簡箋及封筒の懸賞募集をやった。

『芸天』第37・38号 芸天社 昭和2年(1927) 

岸田劉生(洋画家)には「少しがさつな吹き屋」、雑誌記事では「ムカツキ屋」と評されているものの、大津絵にも造詣が深かった様子。木版画の普及活動も行っていたことから、宝船図を発行していてもおかしくないと思われます。

片山真太郎(63)。一般にはこの名で通っているがこれは雅号で、本名は正。長男が現在襲名して二代目真太郎(26)となっている。愛媛県出身で早稲田大学英文科在学中、二回生の夏休みに帰省の途中京都で下車したところ、すっかり京都が好きになり、そのまま学校もやめて住みついてしまったという変り種。中学時代から絵や彫刻が好きで故沼田一雅に彫刻を学び、また陶磁器試験所で白雲陶器を研究してこれを人形に利用することを考えついた。彼の持論は「現在京人形と称して売っている品物、岩槻その他のレール物が多いのは非良心的だ。実際に京都で作られた品物でなければならない」というので、そのために“京人形”の登録商標をとろうと申請したり、講習会を開いて技術家の養成を図ったり孤軍奮闘している。

毎日新聞社編(1956)『京都人物山脈』毎日新聞社

片山は沼田一雅(陶磁器彫刻家)との出会いによって、陶器人形製作業への転身を決断したようです。沼田は昭和3年(1928)に京都高等工芸学校講師として赴任しており、昭和14年(1939)~16年(1941)に商工省京都陶磁器試験所で彫刻指導を行っていることから、この間に片山との接点があったと推察されます。*7 

そして雅号を「尚武」から「真太郎」と改め、山科に居を移します。以降、美術商の肩書は確認できません。

片山眞太郎
都人形製作所 新興陶芸各[株]常務 白雲陶器工芸品製作販売業

東山区山科御陵中門町三八 電山科二九八

[閲歴]愛媛県人明治廿六年十一月三日生る早大卒業夙に現業を営む

宗教佛教 趣味人形製作

帝国秘密探偵社編(1940)『大衆人事録 近畿篇』帝国秘密探偵社/国勢協会

余談ながら大石神社の境内にある天野屋利兵衛を祀った摂社・義人社[図7]は片山の呼びかけで建立されたみたいです。

(昭和)十六年十二月、山科に住む変り者片山真太郎と云う人、例え話は芝居だけであっても天野屋利兵衛の男らしい処は大いに称賛すべきじゃないかと知友の工芸家と語い秋月国立試験所々長が白雲陶器製の大陶板を天井板としてこれに堂本印象山桜を描き、楠部弥弌、高麗狗其外秦蔵六、浅見五郎助、岸本景春、清水正太郎、堂本漆軒外多数の人々神具を寄贈し、天野屋利兵衛の座像を陶器で作り神体として「義人社」と名付け同社(大石神社)の南東に東北へ向けて摂社として祀りました。

田中緑紅(1958)『忠臣蔵名所』緑紅叢書 第20集 京を語る会

図7 義人社

最後に片山と橋本関雪の接点が明確でないのが気になっていましたが、これについては橋本関雪の評伝にこんなエピソードがありました。

のちに京都新聞の記者になる山田龍平がまだ少年だった大正期の見聞である。祇園町北側に、杵屋画廊という店があり、主人は片山真太郎といった。このギャラリーは、当時の京都画壇の人気作家の作品を並べていた。

「その中に関雪の絵があって、それに値札が付いている。たしか尺三位いで百三十五円か百四十円だったと思う。他の絵にも値札があるのや、ないのがあった。大体このクラスの画家は大家あるは新鋭で、値札なんか付けると失礼になる時代だ。特に関雪の絵は一番前のケースに入れて出してあるから、画伯は怒った。その時の関雪はもう大家の中に入っていたからである。これは杵屋画廊の主人の「イヤガラセ」で、この手で大分いじめられた画家がいる。関雪画伯の時も、値札を取れ、取らぬで大分もめたらしいが、相当立長の大きい値札で「何十円」と軸の下にぶら下げてあるのだから画家も困っただろう。(山田龍平「橋本関雪の素顔」、『アート』第23巻第2号、1975年)」

当時の百三十五円と言えば、現在の数十万円に相当する。関雪の作品が大正期に、それなりに高価な値段で取引されていたことがうかがわれる逸話である。

西原大輔(2007)『橋本関雪 ー 師とするものは志那の自然』ミネルヴァ書房

画廊(=きねや美術店?)経営時代に二人の間にトラブルがあった模様。トラブルの時期は定かではないものの、宝船図の下絵を依頼できる間柄であったことは間違いないでしょう。

施主の意向がどれだけ反映されたものだったのか。不明ながらも関雪の卓越した画力と博識によって、復興祈願の重みが感じられる宝船図となっていますね。

 

*1:くずし字の翻刻は大原古文書研究会事務局の野村さんに協力いただきました。

*2:内容的には悟りについてや毘沙門天の御利益が中心で国家鎮護の要素は経典内に見られないとのこと。

参考文献:石井正稔(2019)「『毘沙門天王経』並びに『金光明最勝王経』の構造と内容について (2)」『佛教文化学会紀要』第28号

*3:参考文献:『満商招牌考』,満洲事情案内所,1940. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1719208 (参照 2023-09-25) 

*4:参考文献:西原大輔(2007)『橋本関雪 ー 師とするものは志那の自然』ミネルヴァ書房

*5:篆書体の解読についてはHORIBA ANE(@riba3min)さんに協力いただきました。

*6: 祇園だんごは「三つ宛、串にさした餡だんごで、青地に散桜の包み紙を使った」とあり、『都をどり』の衣装と同じ柄の包み紙で人気があったとされる。

参考文献:井上頼寿 著『京菓子』,推古書院,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2456868 (参照 2023-09-25)

*7:参考文献:物故者記事「沼田一雅」東文研アーカイブデータベース

9/9公開講座のお知らせ

多忙につき、久しく記事を投稿できていませんが…。

伴市プロジェクト様のご支援をいただきまして、カンデオホテルズ京都烏丸六角様がレセプション棟として保存・活用されている京都市登録有形文化財旧伴家住宅」において、きたる2023年9月9日に宝船図の公開講座を開催することになりました。

近代京都の画家と宝船図のかかわりを中心にお話しできれば、と考えています。

よろしければ、ご参加ください!

 

『百年前の宝探し ~大正時代の宝船図流行を追って~』

■日時:2023年9月9日(土) 19時~21時

■定員:20名(要予約)

■参加費:1,000円

■会場:カンデオホテルズ京都烏丸六角 レセプション棟
京都市登録有形文化財旧伴家住宅)二階ライブラリー
■予約:専用フォームよりお申込ください。

後陽成天皇の「勅版宝船」

図1 勅版宝船

大正から昭和の蒐集家に珍重されていた宝船図に「勅版宝船」があります。

これは節分の夜に宮中で配られていたと称するものですが、どのような経緯で市井に出回ったかは不明です。

今回は当時の「勅版宝船」を紹介しながら、その受容と展開について考えてみます。

谷文晁と「勅版宝船」

「勅版宝船」の初出は江戸後期に遡ります。

文政7年(1824)5月、上野不忍池畔の料亭で曲亭馬琴(劇作家)山崎美成(雑学者)谷文晁(南画家)らが珍品・奇物を持ち寄って披露した第一回耽寄会に「後陽成帝宸刻宝船」が出品されており、のちにまとめられた記録集『耽寄漫録』[図2]でそれが如何なるものだったか知ることができます。

寶舩 禁裏にて節分の夜、宿直のものに賜ふ所のものなり、橘窓自語云、宝船の画は花園実久朝臣、獏字は後陽成院宸翰にて、繪文字とも宸刻なり、版木は万治の火事にやけたりしを、京極殿にありしをもて翻刻せられたりしか、今傳へたる版木なり

(中略)

往年、谷写山宸刻の宝舟を翻刻せり、今左に載

山崎美成『耽寄漫録』第1集 文政7年(1824)

図2「後陽成帝宸刻宝船」 出典:日本随筆大成 第一期 別巻『耽寄漫録』上巻 吉川弘文館

読み下してみると「この宝船図は節分の夜、宮中の警備にあたる者に与えられたものであり、江戸後期の随筆『橘窓自語』には「花園実久朝臣が宝船を模写し、後陽成天皇が親ら獏の字を刻まれた版木があったが、万治の大火で焼失し、京極殿にあったものから翻刻したのが今伝わる版木である」と記されている」といったところでしょうか。*1

また模写は「往年、谷写山(文晁)が宸刻の宝船図を翻刻したものである」ともあります。*2

谷文晁がいかにして宸刻の宝船図を実見したのかは分からないものの、この耽寄会でのお披露目が「勅版宝船」が世に知られるきっかけとなったようです。

増える「勅版宝船」

ただ、後陽成天皇(1571~1617)の御事績において宝船図のことが記された史料は見つかっていないし、花園実久朝臣という人物も存在が確認できません。*3

真偽はともかくとして「勅版」には話題性があり、出所不明であることは複製を行う者にとって好都合だったのでしょう。また版木は摺るたびに摩耗し一定のサイクルで改版する必要があるため、求めに応じて複製が作られたとしても不思議はない...と想像しています。

吉川観方(風俗史研究家)は、昭和5年(1930)発行の『多加良富年』に6種類の「勅版宝船」[図3]を挙げるとともに「禁裏版類似の寶船が、無数に刊行せられてゐる」と記しています。*4

図3 出典:吉川観方(1930)『多加良富年』

当会が拿捕した「勅版宝船」[図1]もその一つでしょう。発行元を示す情報は一切なく、版を重ねて摩滅した様子が古さを感じさせますが、帆の文字が「獏」であるか判別するのも厳しい状態です。*5

井上和雄(浮世絵研究家)が大正7年(1918)に発行した『寳船集』[図4]、田中緑紅郷土史家)『古版宝船』[図5]、湯浅四郎(実業家)『寶船百態』[図6]にも「勅版宝船」が掲載されており、当時の蒐集家にとってマストバイアイテムであったことが分かります。

図4 出典:井上和雄(1918)『寳船集』伊勢辰商店

図5 出典:田中緑紅(1927)『古版宝船』郷土趣味社

図6 出典:文献資料蒐集研究所編(1978)『寶船百態』村田書店

とはいえ、大っぴらに取引されていなかったことも窺えますが、蒐集家ならざる人々にも需要はあったとみえ、大正時代には社寺の授与品として「勅版宝船」が登場します。

大正5年(1916)までに平野神社[図7]、大正8年(1919)に梨木神社[図8]日向神社(大神宮)[図9]がほぼ同じ図様の「勅版宝船」を発行しています。*6*7

図7 平野神社の勅版宝船

図8 梨木神社の勅版宝船

図9 日向神社の勅版宝船

「赤山版」の復刻

「勅版宝船」の摩滅する以前の図様を伝えている、と評されたのが赤山禅院の宝船図[図10]です。田中来蘇(医師)は大正7年(1918)の記事において、この宝船図は明治時代まで伝来していた版木が流出し好事家の手に渡ったため、大正5年(1916)頃に信徒によって翻刻され授与を再開したもの、と記しています。

維新前に発行せし版木は現時堺町丸太町某の所蔵品となり扁額とせらると原版は其圖を翻刻せる者にして兩三年前より信者の寄進により授与を復活せり。

田中来蘇(1918)「寶船(三)」『郷土趣味』第3号 郷土趣味社

図10 赤山禅院の宝船図

若原史明(郷土史家)は、大正12年(1923)に寄稿した記事の中で赤山禅院の宝船図が「勅版宝船」の原図であろう、と考察しています。*8

赤山版が赤山禅院より発行されし年代詳ならずと雖も正しく禁裏船の古版と定むべきものにて、即ち後陽成天皇宸筆なるべし、そは今傳ふる禁裏寶船は徳川氏の萬治年間に舊版の摩滅せしまゝを原図として改版せしものなれば全體の圖様明瞭を缼き、而して赤山版は此の禁裏版と毫も異らざる筆劃を有するが故に當期に於ける禁裏版の遺傳と見るべきものと私考す、以て赤山と禁裏とは元同版のものなるべし

若原史明(1923)「寶船の沿革(二)」『風俗研究』第32号 風俗研究会

この「赤山版」を踏襲したものは、大正5年(1916)までに宗像神社(京都御苑)[図11]、大正6年(1917)に八坂神社御供社(四条御旅所)[図12]、大正7年(1918)頃に御所八幡宮[図13]で発行されています。*9

宗像神社は波間に雌雄の鯛と海老2匹が追加されており、御所八幡宮はその派生のような図様、八坂神社御供社は回文歌が追加されているのが特徴です。*10

図11 宗像神社の宝船図

図12 八坂神社御供社の宝船図

図13 御所八幡宮の宝船図

改めて「赤山版」を考える

確かに「赤山版」では「勅版宝船」において判別の難しかった獏の字・帆の百足・懸鯛・小松が明瞭となっています。黒く潰れてしまった船上に宝珠・金嚢・隠れ蓑・小槌・米俵が載っているのも宝船として妥当なところかと。[図14]

図14 「赤山版」の図様

しかし、少々気になる点もあります。

まず帆の下部を横切る謎の線。この線は全く機能しておらず、不自然です。また「勅版宝船」では舳先よりも長く伸びている線が短くなっています。

もう一つは米俵の空白部分。手前と奥の米俵を隠すような空白であり、何かが上にあったのではないでしょうか。

これらのことから「赤山版」は欠けたパズルのピースを埋めるかのように補筆された可能性があり、一部補完しきれてない箇所があるように感じます。

一方で宗像神社に伝わる宝船図は、謎の線を長柄杓の柄、空白を隠れ笠としており、また別系統で原図をオマージュしたものかもしれません。*11

余談ながら「宝船狂」と呼ばれた山崎翠紅(蒐集家)は、昭和3年(1928)11月10日の昭和天皇の即位礼に合わせて友人宛に「勅版宝船」をあしらった絵葉書[図15]を投函しています。あえて宗像神社に近い図様を採用している点は興味深いですね。*12

図15 山崎翠紅の絵葉書

現代の「勅版宝船」

ちなみに現在入手可能な「勅版宝船」は、赤山禅院の「夢見の宝船(3種1組)」[図16]、下鴨神社で正月に授与される「後陽成天皇勅版 宝船の図」[図17]となっています。

図16 赤山禅院「夢見の宝船」

図17 下鴨神社後陽成天皇勅版 宝船の図」

うっかり当ブログをご覧になって船酔いしそうな向きには申し訳ないですが、もし興味を抱かれた方がいれば、原図に思いをはせる格好の素材となること請け合いです。

なお、「勅版宝船」の小松とともに宙に浮く謎の物体については、またの機会に。

*1:『橘窓自語』巻二には「節分の夜に内裏宿直のものに給ふ宝船の画は花園実久朝臣模写、後陽成天皇宸翰にて、絵文字とも宸刻なり。此帝の宸刻の神代巻、職原抄、孝経などもあり。たから船の版木は、万治の火事にやけたりしを、京極殿にありしをもて翻刻せられたりしが、いまつたへる版木なり」と記されている。
参考文献:日本随筆大成編集部編(1975)『日本随筆大成』第1期 第4巻 吉川弘文館

*2:これを裏付ける資料として雑誌『犬梟』第1巻第1号の口絵には、大正3年(1914)の第二回又玄会に斎藤隆三(史学者)が出品した「谷文晁筆古図模写ノ宝船木版摺」が掲載されており、「享和二年四月模刻傳之 文晁」と書き添えられている。

参考文献:『犬梟』1(1),又玄会,1915-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1468051 (参照 2023-03-20)

*3:石橋臥波(民俗学者)が『萩原随筆』から引用として「又、一説には、後小松院が、夢に寶船を御覧じて画かせられた、獏の字は即ち宸翰で、かねへどのの黄金の釜の煤を集めて版を摺った」という異説を掲載しているが、今のところ当該箇所が確認できていない。

参考文献:石橋臥波(1911)『宝船と七福神』聚精堂

*4:中には天皇の綸旨と同じく、後村上天皇崩御ののち皇后が天皇御一代の反故紙を集めて漉き直されたという故事にちなんだ薄墨色の宿紙(再生紙)を使用したものもあったという。

*5:表装されたものに見えるが、本紙の周りに紙の裂地をめぐらせただけでチープな感は否めない。

*6:参考文献:田中緑紅(1922)『寶舩小話』郷土趣味社

*7:日向神社はなぜか百足・小松といった要素が失われている。

*8:当時より赤山禅院では「勅版宝船」を謳っていない。念のため。

*9:参考文献:田中緑紅(1922)『寶舩小話』郷土趣味社

*10:八坂神社の玉光稲荷社・御供社・又旅社では同じ版が授与されていた。

参考文献:田中緑紅(1922)『寶舩小話』郷土趣味社

*11:宗像神社の前身は花山院家の邸内社であり、宮中との関係も深い。

*12:「此圖也、禁庭毎歳除夕所賜、當夜寓直之公郷、各一紙者也」は出典不明の一文だが、山崎翠紅自身が添えた解説であろう。

はじめに

京都では古来より節分の夜に見る夢を「初夢」として、縁起のよい夢が見られるよう枕の下に宝船の絵を敷いて眠る、というまじないが行われてきました。

天皇や公家・武家においてはお抱え絵師が描いた肉筆画を用いていましたが、この習俗が盛んになるにつれて版画となり、庶民にも普及して一部の社寺でも授与されるようになりました。

明治の文明開化で古い習俗が次々と衰退していく中、趣味人と呼ばれる人々が現れて、大正時代に宝船図*1は再評価されるとともに蒐集の対象となります。

この蒐集活動が一般にも知られるようになった結果、京都画壇の絵師らが手掛けた新作が毎年出るようになり、昭和初期には二百を超える社寺で宝船図が発行されるというブームとなったのです。

今となっては百年前の熱狂は忘れ去られていますが、現代の御朱印集めに相通ずるものかもしれません。

このブログでは、忘れられたアートムーブメントの全容に迫るべく、ささやかな調査研究の成果を発信していきたいと思います。

 

*1:※他の工芸品と区別するため、宝船の版画を「宝船図」と表記します。