後陽成天皇の「勅版宝船」

図1 勅版宝船

大正から昭和の蒐集家に珍重されていた宝船図に「勅版宝船」があります。

これは節分の夜に宮中で配られていたと称するものですが、どのような経緯で市井に出回ったかは不明です。

今回は当時の「勅版宝船」を紹介しながら、その受容と展開について考えてみます。

谷文晁と「勅版宝船」

「勅版宝船」の初出は江戸後期に遡ります。

文政7年(1824)5月、上野不忍池畔の料亭で曲亭馬琴(劇作家)山崎美成(雑学者)谷文晁(南画家)らが珍品・奇物を持ち寄って披露した第一回耽寄会に「後陽成帝宸刻宝船」が出品されており、のちにまとめられた記録集『耽寄漫録』[図2]でそれが如何なるものだったか知ることができます。

寶舩 禁裏にて節分の夜、宿直のものに賜ふ所のものなり、橘窓自語云、宝船の画は花園実久朝臣、獏字は後陽成院宸翰にて、繪文字とも宸刻なり、版木は万治の火事にやけたりしを、京極殿にありしをもて翻刻せられたりしか、今傳へたる版木なり

(中略)

往年、谷写山宸刻の宝舟を翻刻せり、今左に載

山崎美成『耽寄漫録』第1集 文政7年(1824)

図2「後陽成帝宸刻宝船」 出典:日本随筆大成 第一期 別巻『耽寄漫録』上巻 吉川弘文館

読み下してみると「この宝船図は節分の夜、宮中の警備にあたる者に与えられたものであり、江戸後期の随筆『橘窓自語』には「花園実久朝臣が宝船を模写し、後陽成天皇が親ら獏の字を刻まれた版木があったが、万治の大火で焼失し、京極殿にあったものから翻刻したのが今伝わる版木である」と記されている」といったところでしょうか。*1

また模写は「往年、谷写山(文晁)が宸刻の宝船図を翻刻したものである」ともあります。*2

谷文晁がいかにして宸刻の宝船図を実見したのかは分からないものの、この耽寄会でのお披露目が「勅版宝船」が世に知られるきっかけとなったようです。

増える「勅版宝船」

ただ、後陽成天皇(1571~1617)の御事績において宝船図のことが記された史料は見つかっていないし、花園実久朝臣という人物も存在が確認できません。*3

真偽はともかくとして「勅版」には話題性があり、出所不明であることは複製を行う者にとって好都合だったのでしょう。また版木は摺るたびに摩耗し一定のサイクルで改版する必要があるため、求めに応じて複製が作られたとしても不思議はない...と想像しています。

吉川観方(風俗史研究家)は、昭和5年(1930)発行の『多加良富年』に6種類の「勅版宝船」[図3]を挙げるとともに「禁裏版類似の寶船が、無数に刊行せられてゐる」と記しています。*4

図3 出典:吉川観方(1930)『多加良富年』

当会が拿捕した「勅版宝船」[図1]もその一つでしょう。発行元を示す情報は一切なく、版を重ねて摩滅した様子が古さを感じさせますが、帆の文字が「獏」であるか判別するのも厳しい状態です。*5

井上和雄(浮世絵研究家)が大正7年(1918)に発行した『寳船集』[図4]、田中緑紅郷土史家)『古版宝船』[図5]、湯浅四郎(実業家)『寶船百態』[図6]にも「勅版宝船」が掲載されており、当時の蒐集家にとってマストバイアイテムであったことが分かります。

図4 出典:井上和雄(1918)『寳船集』伊勢辰商店

図5 出典:田中緑紅(1927)『古版宝船』郷土趣味社

図6 出典:文献資料蒐集研究所編(1978)『寶船百態』村田書店

とはいえ、大っぴらに取引されていなかったことも窺えますが、蒐集家ならざる人々にも需要はあったとみえ、大正時代には社寺の授与品として「勅版宝船」が登場します。

大正5年(1916)までに平野神社[図7]、大正8年(1919)に梨木神社[図8]日向神社(大神宮)[図9]がほぼ同じ図様の「勅版宝船」を発行しています。*6*7

図7 平野神社の勅版宝船

図8 梨木神社の勅版宝船

図9 日向神社の勅版宝船

「赤山版」の復刻

「勅版宝船」の摩滅する以前の図様を伝えている、と評されたのが赤山禅院の宝船図[図10]です。田中来蘇(医師)は大正7年(1918)の記事において、この宝船図は明治時代まで伝来していた版木が流出し好事家の手に渡ったため、大正5年(1916)頃に信徒によって翻刻され授与を再開したもの、と記しています。

維新前に発行せし版木は現時堺町丸太町某の所蔵品となり扁額とせらると原版は其圖を翻刻せる者にして兩三年前より信者の寄進により授与を復活せり。

田中来蘇(1918)「寶船(三)」『郷土趣味』第3号 郷土趣味社

図10 赤山禅院の宝船図

若原史明(郷土史家)は、大正12年(1923)に寄稿した記事の中で赤山禅院の宝船図が「勅版宝船」の原図であろう、と考察しています。*8

赤山版が赤山禅院より発行されし年代詳ならずと雖も正しく禁裏船の古版と定むべきものにて、即ち後陽成天皇宸筆なるべし、そは今傳ふる禁裏寶船は徳川氏の萬治年間に舊版の摩滅せしまゝを原図として改版せしものなれば全體の圖様明瞭を缼き、而して赤山版は此の禁裏版と毫も異らざる筆劃を有するが故に當期に於ける禁裏版の遺傳と見るべきものと私考す、以て赤山と禁裏とは元同版のものなるべし

若原史明(1923)「寶船の沿革(二)」『風俗研究』第32号 風俗研究会

この「赤山版」を踏襲したものは、大正5年(1916)までに宗像神社(京都御苑)[図11]、大正6年(1917)に八坂神社御供社(四条御旅所)[図12]、大正7年(1918)頃に御所八幡宮[図13]で発行されています。*9

宗像神社は波間に雌雄の鯛と海老2匹が追加されており、御所八幡宮はその派生のような図様、八坂神社御供社は回文歌が追加されているのが特徴です。*10

図11 宗像神社の宝船図

図12 八坂神社御供社の宝船図

図13 御所八幡宮の宝船図

改めて「赤山版」を考える

確かに「赤山版」では「勅版宝船」において判別の難しかった獏の字・帆の百足・懸鯛・小松が明瞭となっています。黒く潰れてしまった船上に宝珠・金嚢・隠れ蓑・小槌・米俵が載っているのも宝船として妥当なところかと。[図14]

図14 「赤山版」の図様

しかし、少々気になる点もあります。

まず帆の下部を横切る謎の線。この線は全く機能しておらず、不自然です。また「勅版宝船」では舳先よりも長く伸びている線が短くなっています。

もう一つは米俵の空白部分。手前と奥の米俵を隠すような空白であり、何かが上にあったのではないでしょうか。

これらのことから「赤山版」は欠けたパズルのピースを埋めるかのように補筆された可能性があり、一部補完しきれてない箇所があるように感じます。

一方で宗像神社に伝わる宝船図は、謎の線を長柄杓の柄、空白を隠れ笠としており、また別系統で原図をオマージュしたものかもしれません。*11

余談ながら「宝船狂」と呼ばれた山崎翠紅(蒐集家)は、昭和3年(1928)11月10日の昭和天皇の即位礼に合わせて友人宛に「勅版宝船」をあしらった絵葉書[図15]を投函しています。あえて宗像神社に近い図様を採用している点は興味深いですね。*12

図15 山崎翠紅の絵葉書

現代の「勅版宝船」

ちなみに現在入手可能な「勅版宝船」は、赤山禅院の「夢見の宝船(3種1組)」[図16]、下鴨神社で正月に授与される「後陽成天皇勅版 宝船の図」[図17]となっています。

図16 赤山禅院「夢見の宝船」

図17 下鴨神社後陽成天皇勅版 宝船の図」

うっかり当ブログをご覧になって船酔いしそうな向きには申し訳ないですが、もし興味を抱かれた方がいれば、原図に思いをはせる格好の素材となること請け合いです。

なお、「勅版宝船」の小松とともに宙に浮く謎の物体については、またの機会に。

*1:『橘窓自語』巻二には「節分の夜に内裏宿直のものに給ふ宝船の画は花園実久朝臣模写、後陽成天皇宸翰にて、絵文字とも宸刻なり。此帝の宸刻の神代巻、職原抄、孝経などもあり。たから船の版木は、万治の火事にやけたりしを、京極殿にありしをもて翻刻せられたりしが、いまつたへる版木なり」と記されている。
参考文献:日本随筆大成編集部編(1975)『日本随筆大成』第1期 第4巻 吉川弘文館

*2:これを裏付ける資料として雑誌『犬梟』第1巻第1号の口絵には、大正3年(1914)の第二回又玄会に斎藤隆三(史学者)が出品した「谷文晁筆古図模写ノ宝船木版摺」が掲載されており、「享和二年四月模刻傳之 文晁」と書き添えられている。

参考文献:『犬梟』1(1),又玄会,1915-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1468051 (参照 2023-03-20)

*3:石橋臥波(民俗学者)が『萩原随筆』から引用として「又、一説には、後小松院が、夢に寶船を御覧じて画かせられた、獏の字は即ち宸翰で、かねへどのの黄金の釜の煤を集めて版を摺った」という異説を掲載しているが、今のところ当該箇所が確認できていない。

参考文献:石橋臥波(1911)『宝船と七福神』聚精堂

*4:中には天皇の綸旨と同じく、後村上天皇崩御ののち皇后が天皇御一代の反故紙を集めて漉き直されたという故事にちなんだ薄墨色の宿紙(再生紙)を使用したものもあったという。

*5:表装されたものに見えるが、本紙の周りに紙の裂地をめぐらせただけでチープな感は否めない。

*6:参考文献:田中緑紅(1922)『寶舩小話』郷土趣味社

*7:日向神社はなぜか百足・小松といった要素が失われている。

*8:当時より赤山禅院では「勅版宝船」を謳っていない。念のため。

*9:参考文献:田中緑紅(1922)『寶舩小話』郷土趣味社

*10:八坂神社の玉光稲荷社・御供社・又旅社では同じ版が授与されていた。

参考文献:田中緑紅(1922)『寶舩小話』郷土趣味社

*11:宗像神社の前身は花山院家の邸内社であり、宮中との関係も深い。

*12:「此圖也、禁庭毎歳除夕所賜、當夜寓直之公郷、各一紙者也」は出典不明の一文だが、山崎翠紅自身が添えた解説であろう。