関東大震災からの復興を願った橋本関雪と片山尚武の宝船図

図1 き祢や尚武の宝船図

先日の公開講座で披露した橋本関雪日本画家)が手掛けた「き祢や尚武」の宝船図[図1]。

縦67.5cm、横39cmのちょっとしたのぼりのようなサイズです。朝日を背にこちらへ向かってくる宝船を描き、その上に鶴が舞い、波間には亀が泳いでいます。

帆の左右を飾る小松、船に積まれた隠れ笠・隠れ蓑・宝珠・鍵・長柄杓・珊瑚などは定番のアイテムながら、米俵でなく千両箱(?)が積まれているのは珍しい。

添えられた和歌は、

「天は(わ)破れ地は裂くとも やすみしし 我が(か)大君の 御代はかわらじ」

「大正甲子 帝国復興 第一寿関雪」

とあり、大正時代の甲子(きのえね)の年=大正13年(1924)、おそらく節分に発行されたと考えられます。*1

この大正13年という年、私は気が付かなかったのですが、参加者のヲガクズさん(@wogakuzu)からご指摘をいただいたことにより、

関東大震災大正12年(1923)の翌年であること

・「天は破れ地は裂く」=大震災

・「やすみしし 我が大君」=天皇

・「御代はかわらじ」=天皇の治世は変わらない

であり、文字通り震災からの日本の復興と平和を願ったものだと分かったのです。

各部を読み解いてみる

となると、その他の箇所にも何か意味が込められているのではないか?と調べてみました。

宝船図の上部に掲げられた「十得」[図2]は、国が滅ぶような災厄や自然災害を鎮めるとされる『毘沙門天王経』から引用されたもの。*2

図2 き祢や尚武の宝船図[上部]

・一得 無尽福
・二得 衆人愛敬福
・三得 智慧
・四得 長命福
・五得 眷属衆多福
・六得 勝運自在福 
・七得 田畠能成福
・八得 養蠺如意福 
・九得 値善知識福  
・十得 佛果大菩提福

宝珠と百足があしらわれており、百足は毘沙門天の使いといわれています。

井上和雄編『宝船集 第二』には、真言宗の某寺院が発行していたとされる「得十種福護符」が掲載されており、宝珠と百足の位置を含め、ほぼ同じ構成です[図3]。

図3 「得十種福護符」 出典:井上和雄編(1922)『宝船集 第二』伊勢辰商店

ただ、原文では「六得 勝軍自在福」となっているところ、関雪は「勝"運"自在福」としているのが興味深いですね。

図4 き祢や尚武の宝船図[中央部]

帆には宝の旧字「寶」を中心として「招」「財」「進」といった文字を組み合わせたものが描かれています。[図4]

これは中華圏における春節の風習である、家の門口に縁起のよい文句を書いて赤紙を貼る「春聯(しゅんれん)」に用いられる図案の一つでした。財を招き、寶を集める...として人気があるとか。*3

生涯に60回以上中国へと渡ったとされる関雪ですから、こうした異国の文化にも詳しかったのでしょう。*4

図5 き祢や尚武の宝船図[落款印の拡大]

「招財進寶」の上には落款印[図5]があり、「寶祚之降 當與天 壤無窮」と書かれていることが分かりました。*5

天照大御神が皇孫・瓊瓊杵尊に対して下された「天壌無窮の神勅」の一節「寶祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」を引用したものと考えられます。寶祚(皇位)と宝船を「寳」で掛け合わせているのは、何とも上手いですね。

施主「き祢や尚武」について

図6 き祢や尚武の宝船図[右下部]

残る謎は施主[図6]についてです。国会図書館デジタルコレクションで検索を駆使した結果、大正時代に祇園石段下で「きねや美術店」を営んでいた「片山正」という人物が浮かび上がり、その雅号が「尚武」であることが判明しました。

片山 正

京都名物祇園だんご 京都名物阿は餅製造販売元 商号祇園だんご 京都市祇園街石段下北側 電話祇園二三八、四六七二番

新書画美術品商 商号きねや美術店 京都市下河原通下河原町 電話祇園六六五番

君は本県士族にして明治二十八年十一月三日を以て八幡濱町に生る後、原籍を京都市東山区祇園町北側二八五に移す。夙に県立宇和島中島学校に学び後、上京。実業に従事す。現に前記の実業に従事し、尚武と号し、新書画美術の蘊奥を極め、書画骨董界に於ける重鎮たり。宗教代々浄土宗なりしも現在は日蓮宗なり。趣味、旅行、写真。【家庭】妻安子は京都市京都第一高女卒、長男眞太郎あり。

愛媛通信社編(1934)『伊予の事業と人物』愛媛通信社

祇園だんご」経営との兼ね合いは詳らかではないですが、愛媛からの移住後に美術商として成功し、昭和初期には故郷に錦を飾った人物として知られていたようです。*6

七月二十一日 晴

天気もどうやらなほつたらしい。蓁は用事にて上京。ひる前仕事にでもかゝらうかと思つてゐたら、京都の内藤琪土君の紹介で片山尚武といふ新書画屋さん来訪、内藤君が志那の篆刻家にたのんでくれた印が出来たのと、木村に贈る唐画(明初?)花に蟲類の図とを託されて来たのだ。志那へ行つていろいろ画材になる風景を写真にうつして来たのを七百枚とか持つてゐたり、大津画の刊行をするとか云つてゐたが、少しがさつな吹き屋らしくあまり好意は持てなかつた。

岸田劉生(1952)『劉生絵日記』第2巻 大正12年(1923)度 龍星閣

祇園石段下きね屋美術店へは時々生白い自称美術家連や絵専生などがやって来ては店頭に陳列された売品画に対して得手勝手な出鱈目の罵評を加へたりするので柔道二段のムカツキ屋の主人片山尚武君はいつかもこんな連中を見掛けて「貴様達に画がわかるか」と生白い連中を電車道の真中まで投げ飛ばしたことがあった。此頃同店先へ『絵専生徒入るべからず』と貼り出そうかと笑っていた。

『芸天』第30号 芸天社 大正15年(1926)

▲片山尚武氏 自分の趣味とする木版画普及の目的をもって自己経営のきねや美術店より京都趣味の書簡箋及封筒の懸賞募集をやった。

『芸天』第37・38号 芸天社 昭和2年(1927) 

岸田劉生(洋画家)には「少しがさつな吹き屋」、雑誌記事では「ムカツキ屋」と評されているものの、大津絵にも造詣が深かった様子。木版画の普及活動も行っていたことから、宝船図を発行していてもおかしくないと思われます。

片山真太郎(63)。一般にはこの名で通っているがこれは雅号で、本名は正。長男が現在襲名して二代目真太郎(26)となっている。愛媛県出身で早稲田大学英文科在学中、二回生の夏休みに帰省の途中京都で下車したところ、すっかり京都が好きになり、そのまま学校もやめて住みついてしまったという変り種。中学時代から絵や彫刻が好きで故沼田一雅に彫刻を学び、また陶磁器試験所で白雲陶器を研究してこれを人形に利用することを考えついた。彼の持論は「現在京人形と称して売っている品物、岩槻その他のレール物が多いのは非良心的だ。実際に京都で作られた品物でなければならない」というので、そのために“京人形”の登録商標をとろうと申請したり、講習会を開いて技術家の養成を図ったり孤軍奮闘している。

毎日新聞社編(1956)『京都人物山脈』毎日新聞社

片山は沼田一雅(陶磁器彫刻家)との出会いによって、陶器人形製作業への転身を決断したようです。沼田は昭和3年(1928)に京都高等工芸学校講師として赴任しており、昭和14年(1939)~16年(1941)に商工省京都陶磁器試験所で彫刻指導を行っていることから、この間に片山との接点があったと推察されます。*7 

そして雅号を「尚武」から「真太郎」と改め、山科に居を移します。以降、美術商の肩書は確認できません。

片山眞太郎
都人形製作所 新興陶芸各[株]常務 白雲陶器工芸品製作販売業

東山区山科御陵中門町三八 電山科二九八

[閲歴]愛媛県人明治廿六年十一月三日生る早大卒業夙に現業を営む

宗教佛教 趣味人形製作

帝国秘密探偵社編(1940)『大衆人事録 近畿篇』帝国秘密探偵社/国勢協会

余談ながら大石神社の境内にある天野屋利兵衛を祀った摂社・義人社[図7]は片山の呼びかけで建立されたみたいです。

(昭和)十六年十二月、山科に住む変り者片山真太郎と云う人、例え話は芝居だけであっても天野屋利兵衛の男らしい処は大いに称賛すべきじゃないかと知友の工芸家と語い秋月国立試験所々長が白雲陶器製の大陶板を天井板としてこれに堂本印象山桜を描き、楠部弥弌、高麗狗其外秦蔵六、浅見五郎助、岸本景春、清水正太郎、堂本漆軒外多数の人々神具を寄贈し、天野屋利兵衛の座像を陶器で作り神体として「義人社」と名付け同社(大石神社)の南東に東北へ向けて摂社として祀りました。

田中緑紅(1958)『忠臣蔵名所』緑紅叢書 第20集 京を語る会

図7 義人社

最後に片山と橋本関雪の接点が明確でないのが気になっていましたが、これについては橋本関雪の評伝にこんなエピソードがありました。

のちに京都新聞の記者になる山田龍平がまだ少年だった大正期の見聞である。祇園町北側に、杵屋画廊という店があり、主人は片山真太郎といった。このギャラリーは、当時の京都画壇の人気作家の作品を並べていた。

「その中に関雪の絵があって、それに値札が付いている。たしか尺三位いで百三十五円か百四十円だったと思う。他の絵にも値札があるのや、ないのがあった。大体このクラスの画家は大家あるは新鋭で、値札なんか付けると失礼になる時代だ。特に関雪の絵は一番前のケースに入れて出してあるから、画伯は怒った。その時の関雪はもう大家の中に入っていたからである。これは杵屋画廊の主人の「イヤガラセ」で、この手で大分いじめられた画家がいる。関雪画伯の時も、値札を取れ、取らぬで大分もめたらしいが、相当立長の大きい値札で「何十円」と軸の下にぶら下げてあるのだから画家も困っただろう。(山田龍平「橋本関雪の素顔」、『アート』第23巻第2号、1975年)」

当時の百三十五円と言えば、現在の数十万円に相当する。関雪の作品が大正期に、それなりに高価な値段で取引されていたことがうかがわれる逸話である。

西原大輔(2007)『橋本関雪 ー 師とするものは志那の自然』ミネルヴァ書房

画廊(=きねや美術店?)経営時代に二人の間にトラブルがあった模様。トラブルの時期は定かではないものの、宝船図の下絵を依頼できる間柄であったことは間違いないでしょう。

施主の意向がどれだけ反映されたものだったのか。不明ながらも関雪の卓越した画力と博識によって、復興祈願の重みが感じられる宝船図となっていますね。

 

*1:くずし字の翻刻は大原古文書研究会事務局の野村さんに協力いただきました。

*2:内容的には悟りについてや毘沙門天の御利益が中心で国家鎮護の要素は経典内に見られないとのこと。

参考文献:石井正稔(2019)「『毘沙門天王経』並びに『金光明最勝王経』の構造と内容について (2)」『佛教文化学会紀要』第28号

*3:参考文献:『満商招牌考』,満洲事情案内所,1940. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1719208 (参照 2023-09-25) 

*4:参考文献:西原大輔(2007)『橋本関雪 ー 師とするものは志那の自然』ミネルヴァ書房

*5:篆書体の解読についてはHORIBA ANE(@riba3min)さんに協力いただきました。

*6: 祇園だんごは「三つ宛、串にさした餡だんごで、青地に散桜の包み紙を使った」とあり、『都をどり』の衣装と同じ柄の包み紙で人気があったとされる。

参考文献:井上頼寿 著『京菓子』,推古書院,1950. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2456868 (参照 2023-09-25)

*7:参考文献:物故者記事「沼田一雅」東文研アーカイブデータベース